START THE FUTURE.
さぁ、未来を始めよう。

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- 私の志

私の原点は「鹿島を元気にしたい!」という強い思いです。
人口減少や地方衰退の大きな波が押し寄せる中で、その波に抗い、挑み続け、みなさんの生活を少しでも良くしていくのが政治家の役割だと考えています。
また口先だけの政治家には決してならず、山から海、小さな集落から大きな集落まで一つ一つを自転車で走り回り、子供から高齢者まで様々な皆さんからの声なき声を受け止めて街づくりに生かしていきます。
初心を忘れず、皆さんから「チャリンコ政治家」と愛称で呼んで頂けるように日々精進します。
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- プロフィール

中村 一尭(なかむら かずたか)
誕生日 1984年6月16日(38歳)
血液型 A型
経歴
平成 9年 鹿島市立古枝小学校卒業
平成12年 鹿島市立東部中学校卒業
平成15年 佐賀県立鹿島高等学校卒業
平成19年 九州工業大学工学部建設社会工学科卒業
平成21年 同大学院建設社会工学専攻修了
職歴
平成21年 株式会社ザメディアジョン入社
【観光情報誌 るるぶ広島 宮島などを制作】
平成22年 同社 退社
平成23年 鹿島市議会議員選挙初当選 1期目(1,213票 5位/17名)
平成27年 鹿島市議会議員選挙当選 2期目(1,196.856票 2位/19名)
平成30年 鹿島市長選挙 落選(7,024票/14800票)
平成31年 鹿島市議会議員選挙当選 3期目(2,035.277票 1位/18名)
誕生〜幼少時代
1984年6月16日、佐賀県鹿島市生まれ。
中村家の長男として生まれ、古枝中尾で育ちました。
1つ上の従姉や近所の子供と外が真っ暗になるまで遊んでいました。
ばあちゃんとよく漬け物を漬けており、子供ながらに料理の楽しさを知りました。
幼稚園の年長から少林寺拳法を始めました。それがきっかけで身体も強くなり、精神的にも磨かれました。


小学校時代
近所には大勢の子供がいて、みんな兄弟のように育ちました。誰とでも平等に、明るく楽しく話せることができるのはこの子供の頃の環境があるからだと思います。
小学校5年生の終わりに、大病にかかりました。国の特定疾患で「潰瘍性大腸炎」。
昔は希有な病気で、病名がわからず県内外の病院を20軒近く回りました。体重は46kg→32kgになりました。


写真右の大きい子供が私
中学生時代
小学生6年〜中学生では入退院を何度か繰り返しました。
当時は珍しい病気で福岡に入院していたので家族や友人と離ればなれになり、寂しく辛いをしました。
お袋は片道1時間半かかる電車を乗り継いで毎日毎日来てくれました。母親の深い愛情を痛感しました。
病気の症状が一番悪化している時、自ら命を投げ出すことも考えました。
遺書も綴っていましたが、家族や友人、支えてくれている色んな人の顔が頭によぎって最終的には踏み止まりました。この出来事で、2つのことを決意しました。
「人生死ぬまで一生懸命笑って生きよう。」
「一度死んだつもりで、人様の役に立てるように生きよう。」
大病は私に色々なことを教えてくれました。命の大切さ、周りの人の大切さ、(病気などで)弱い立場の人の気持ち。人生のあらゆる場面でこの経験は私を今でも支えてくれています。この辺りから漠然と、人様のお役に立つ=政治家が頭にありました。


高校時代
家族や周りの支えて下さったみなさんのお陰で順調に回復し、元気に高校へ通えるようになりました。
友人たちに彼女が出来始め、私も青春をしたかったのですが、女性と話すと緊張したので「恥ずかしがる自分を変えたい」と常々思っていました。
ある時テレビで福山雅治さんが「桜坂」をギター弾き語りで歌っていました。
「これだ!!」と決意して、ギターを始めました。
学校の先生に直談判し、「昼休み物理室アコースティックギタークラブ」という同好会を作りました。
全くモテはしませんでしたが、今でも集まるような大切な仲間たちが出来ました。
進学については色々悩みましたが、政治家になって街をデザインしてみたい気持ちがあり「建設社会工学(土木)」に進むことにしました。


大学時代
大学は社会に出て役に立つ準備の場&様々な経験をする場だと考えていました。バイトはたくさんやりました。ガソリンスタンド、塾講師、お祭りの出店、裁判所の傍聴席確保、飲食店、デザイン会社など。それぞれの仕事にとても大切な役割と業界の常識があることを身を持って知りました。
また、恥ずかしさを克服する訓練と政治家になったら街頭演説しなければならないと考えていたので、小倉駅で路上ライブしたり、ライブハウスで定期的にライブ活動を始めました。これは大変貴重な経験になりました。オーディエンスの空気、飽きさせないようなトーク術、間の取り方、細部への気配りと全体的なバランス等この間に培った実体験は今の私の糧になっています。
将来の進路は悩みました。政治で街のデザインもやりたかったのですが、その頃メディア(テレビ)で社会をデザインしてみたいという想いが強くなっていて、テレビ局を30社くらい受験しました。が、甘くなかったです。全滅。広島の出版社へ就職しました。


社会人時代
広島で働き始めました。個性豊かな先輩や尊敬できる先輩がたくさんいらっしゃって、毎日楽しかったです。広島はとても団結力のある街で「私は福岡ソフトバンクホークスのファンです。」とは言えない空気感で、そういう所もすごく好きでした。
仕事内容は広島の情報観光誌「るるぶ」や「るるぶフリー」の営業や取材撮影、誌面編集をしていました。広島の特徴、素晴らしい観光地、美味しい食べ物などの魅力を掘り下げていって、どれだけ広島へ行きたくなる誌面を読者に伝え切れるのかを日々考えていました。この経験は、鹿島へ帰ってきて客観的に「鹿島の魅力ってなんだろう」「どういう特徴があって、どこを更に伸ばしていくのか」を考えるときに非常に役に立ちました。
広島で働いている生活はすごく充実して魅力的だったのですが、次第に「これが自分のやりたかったことか。今の仕事で社会を変えられるか」という気持ちを持つようになりました。


社会人パート2
これからは政治の道を歩むと決意して、佐賀へ帰郷しました。
家族へ「政治家になって、鹿島を良くしたか!」と相談すると、以前市議をしていた親父が「俺も選挙に出たか!」と言い出して、親戚や後援会を集めて親子で「予備選挙」をしました。
様々な意見が出ましたが、最終的には「若いもんに賭けてみよう」という結論に達し後援会が応援してくれることになりました。
早速、地元地域で「街の課題ってなんですか」「鹿島がどうなれば住みやすくなりますか」とみなさんの声を一つ一つ聞いて回りました。
最初は多くの人が「誰やこの若者は。」という反応でした。26歳の知らない若者が突然話しかけてきたら誰でも驚きます。しかし、雨の日も雪の日もひたすら回り続けました。

地元の祐徳稲荷神社

鹿島ローターアクトクラブにて
初当選まで
政治活動をしていて、市民の皆様が私に想いを託してくれるかすごく不安でした。
26歳の右も左も分からない若者に大切な1票を入れてくれるのだろうか。
しかし、だからこそ一人一人とお話をして私という人間をわかってもらわなければならないと思っていました。近所の人や若い人がたまに「応援してるよ」と言ってくださるのが、涙が出るほど嬉しかったです。
激しい選挙戦の末、支援者やスタッフの皆様のお陰で1213票の得票数で17名中5番で当選させていただきました。当選日の翌日、交差点で「ありがとうございました」と車に向かって挨拶運動をしていると、たくさんの人が大きく手を振りながら横切ってくれ、「頑張れー」と窓を開けて何人もの人が声をかけてくれました。
嬉しくて、嬉しくて、大泣きしながら手を振り返しました。応援してくれた皆さんのため、鹿島のために全力で頑張ろうと固く心に誓いました。


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- 政策

若者が「惚れ込む」街づくり
街の活力=若者の賑わいです!魅力的な街並み整備(SNS、インスタ映え)で若者の交流人口増やし、住みたい街No1を目指します!また、これまで6年間実行してきた結婚支援事業(30組以上成婚)にも力を入れ、その後の移住政策や空き家対策に繋げ、更には起業支援に取り組んでいきます。
ふるさと納税強化&地域課題の解決
上峰町のふるさと納税額は45億円、唐津市では18億円ですが、鹿島市は1億円です。私はふるさと納税を強力に推進し、その積み立てた財源を地域の課題や市民の要望事(道路や防災、スポーツ施設、鳥獣被害対策等)のために使います!返礼品として地元産品のミカンやのり、日本酒、米、佐賀牛などを活用し、地元の産業振興を進めていきます。


ふれ合いと支え合いの高齢化社会実現
「高齢者の交通手段」を今まで通り確保して、更に利用しやすいように鹿島独自で「タクシーチケット」を配布し、高齢者が少しでも楽に買い物や病院などへ行ける社会を実現します。また医療機関や地域の方と連携し、独り住まいや高齢者の健康づくりを応援します。
栄える産業とトキめく観光振興
鹿島の特色ある産業において、所得向上のための様々な事業を行います。第一次産業では若手の新規農業、漁業就業者に対して力強く支援し、これまで以上に「稼げる産業づくり」や後継者対策(AI人工知能やドローン活用等)を推進します。観光分野では大学や社会人時代に研究した『歩いてみたい』と感じるような街並み作りに取り組みます。外国人観光客が祐徳稲荷神社だけでなく、酒蔵通りや道の駅に周遊できるような環境づくりを目指します。


先進的な子育て応援と女性活躍支援
病気中の子供保育(病児保育)、土日や突発的な休日保育など積極的な子育て応援に努めます。また、公園遊具の充実や子供と一緒にゆっくりできるカフェのような場の創出や育児休暇取得、産後の復職支援に力を入れます。
歴史・伝統・文化の追求と情報発信
鹿島には歴史・伝統・文化を積み重ねた祐徳稲荷神社や酒蔵通り、旭ヶ丘公園など様々な宝があります。世界に通用する観光地の再整備や若い発想力で世界中に情報発信をして、鹿島の文化や魅力を伝えていきます。また囲碁や将棋などを通して、鹿島の歴史を生かした子供の教育に役立てていきます。

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- 活動報告


結婚支援活動
この活動を始めたきっかけは、鹿島市内を回っていて若者からは「出会いがない」、50代以上の方からは「子供が独り身で心配だ」という声がとても多かったからでした。
色々調べてみると、未婚化や晩婚化が進む中でも「いずれ結婚したい」と考えている人は男女の約90%(出生動向基本調査2015 18歳〜34歳)。結婚が出来ない一番の原因は、「適当な相手に巡り会わない」という回答が最も高くなっていました。
鹿島市議会の場で「結婚支援課の設立」を何度も訴えたのですが、市長の方針とは違うとのことで鹿島市としては何もしないとの返答が返ってきました。こんなに困っている人がいるのに、何もしないのは私には考えられませんでした。誰もしないのなら、自分が始めようと決断しました。
2011年12月に結婚支援ボランティア団体を設立し、「出会いの場が少ない男女」のために婚活イベントやお見合い、食事会などを通じて「出会いの場を創出する」活動を始めました。支えて下さった皆さんのお陰でこれまでの活動で30組以上の成婚実績が生まれました。何も行動しなかったら、何も生まれませんでした。しかし、一歩を踏み出すことで社会を少しずつ変えていけることを身を持って体験しました。これからも結婚したい男女のために結婚支援活動を続けて参ります。

災害ボランティア活動
(東日本大震災、熊本地震、九州北部豪雨で活動)
未曾有の東日本大震災。あの情景をテレビで見たときに、日本のために何か少しでも力になりたいと思い、被災地ボランンティア活動へ行ってきました。泥にまみれて瓦礫を片付ける一方で、被災者の声、行政の声、ボランティアの声を伺いました。被災者の胸の奥に刻まれた深い傷や思い、助けたかったのに助けられなかった行政の悩みと苦悩、純粋な心でひたすら汗を流し続けるボランティア達、直接現場に行き経験したからこそわかったこと、得たことがあると思います。あれから数年が経ち、少しずつ未来に向かって歩んでいく姿を陰ながら応援しています。東日本の復興は日本の未来をつくると信じています。
また同じ九州内で発生した熊本地震や九州北部豪雨の被災地へ災害ボランティアへ行ってきました。同じような災害がいつ佐賀県内や鹿島市であってもおかしくはありません。災害へ備えた街づくりについてしっかりと議論をすすめ、災害時対応へ生かしていきます。





各種要望活動
政治家の大切な仕事の一つは要望、陳情活動です。国や県、行政に対して様々な要望活動を行なっています。国道県道の拡張事業や自然災害などへの対応、安全な通学路整備、河川改修や雑木伐採など皆さんから相談を受けたことについて一つ一つ丁寧に進めていきます。
1度の要望だけではなく、2度3度続けることによって行政の対応も違ってきますので地域住民や困っている方々の声を早急に実現できるように日々努力を続けています。
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